天神様の歴史
天神様
天神様はもともと雷神をさしていたとされ、雷への畏れや稲妻とともにもたらされる雨の恵みをつかさどる農耕の守護神として広く信仰されていたとされ、京の西北、北野の地にも火雷神(ほのいかづちのかみ)が祀られておりました。
菅原道真公が藤原時平の陰謀で大臣の地位を追われ、大宰府の地でその生涯を終えられたころ、京では日照りが続き御所の中の「清涼殿」が落雷を受けるなどの出来事が立て続けに起こったそうです。
道真公が天神となられお怒りになられているのではないかと考えた朝廷は、そのお怒りを鎮めるべく火雷神が祀られていた北野の地に北野天満宮を建立、その生涯を終えられた大宰府の地にものちの大宰府天満宮が建立されました。
平安時代から鎌倉時代にかけては王城鎮護の役割を果たすほか、慈悲の神、正直の神として信仰を受けるようになりました。
江戸時代に入ると道真公が優れた学者、歌人であり、弓の腕前も百発百中と文武両道の人であったことから「習い事の神」「学問の神」として広く知られるよう になり、当時町人などが通う学習塾のようなものであった「寺子屋」で盛んに信仰されるようになりました。
当時、寺子屋では正月の初天神には天神講の行事が行われ、毎月25日には寺子と親が
師匠(先生)の家で会食し近くの天神社へお参りをするのが習わしであったともいわれます。
一説には道真公は6月25日のお生まれ、2月25日が命日とされ、25日は天神様の縁日として例祭を行う神社が多く、特に1月25日の「始め天神」、12月25日の「終い天神」が有名です。
ちなみに富山の天神様としては富山市の於保多神社(柳町天満宮)の例祭が、やはり5月25日に行われています。
もともとの天神、火雷神は天候をつかさどる農耕の守護神であったことから、全国に数多く祀られており、しだいにその多くが道真公を祀る神社となっていきました。
天満宮、天満神社、北野神社、菅原神社、天神社等の名称で九州から西日本を中心にその数は一万社を数えるとも言われます。
全国各所に天神様をお祀りする風習があり、その中でも富山県、福井県では男子が生まれると天神像(掛軸や木彫)などを贈り、正月に床の間に飾り天神様をお迎えする。
各地の風習については諸説ありますが、富山県、福井県の風習については幕末の福井藩主、松平春嶽(慶永)が教育熱心であり天神信仰を領民に推奨し、それを富山の売薬が地元へ持ち帰って広めたとする説が有力とされています。
両県とも、天神信仰が地域に根付き大切にされてきたことが、現在でも教育熱心な県として知られるその礎になってきたとも考えられています。